全国で唯一現存する「連歌所」を有する杭全神社。神社がある平野郷地域は、中世から近世にかけて町民たちが自治を行い、現在の梅田や天王寺よりも古くから都市としての機能が完成していた地域です。
独自の教育機関も発達し教育や教養の水準も高かったこの地域で、杭全神社は1200年近く地域の氏神として親しまれてきました。坂上田村麻呂にさかのぼる坂上家、そして和歌山県熊野三山の神様とも縁の深いこの神社の見どころをたっぷりとお届けします。
杭全神社とは
日本の伝統文芸の一つである連歌(れんが)。短歌の五・七・五・七・七の「五・七・五」と「七・七」を別々の人間が順番に連ねていく文芸です。杭全神社は、現在全国で唯一この連歌を作るための連歌会所が現存している神社です。連歌は戦国から江戸時代にかけて全国で流行し、多くの戦国武将も連歌を残しています。
かつては連歌会所も全国に数多ありましたが、連歌は複数人での共作であり細かいルールも多くある程度の教養がなければ作れない、ということが要因となり明治以降になると個人主義の広がりと共に急速に衰退の一途を辿りました。全国各地にあった連歌会所も取り壊され、神社内の連歌所も社務所や別の用途に転用されるなどその姿を消していきました。
昭和の末期には連歌会が復興するなどかつての伝統文芸を遺していこうとする動きがあり、杭全神社が位置する平野区の人たちにも、杭全神社が全国唯一の連歌会所という希少な場所であるという認識が生まれました。杭全神社は、そんな伝統文芸の香りが色濃く残る、全国でも非常に希少な神社です。
【杭全神社特別インタビュー】
大阪市内では珍しい、広大な緑を湛える杭全神社。まさに「都会のオアシス」として訪れる方を爽やかに迎えます。古くからの町割りが現在にも残るなど、昔からこの町の人々が地域に愛情を持っていたことが窺えます。
その「地元愛」は地域の夏の風物詩である夏祭りにも見られ、夏祭りにかける情熱は大阪府内でも随一です。
そんな「地域への愛」に溢れた平野の氏神として親しまれる杭全神社にまつわる様々なエピソードをお伺いしました。
町人自ら、自治の気風が残る平野の地
神社の特徴、魅力についてお聞きできますか。
当社は元々、平野郷という町の氏神様をお祀りする神社として創建されました。大阪市平野区という街中にある神社ですが、そういった立地から考えると珍しくとても緑が多い神社です。神社の入り口には大阪府の天然記念物に指定されている樹齢1000年ほどの楠の木があります。拝殿の横にも樹齢500年ほどのイチョウの木があり、町の中で鎮守の杜がこれだけの形で残っているのは非常に珍しいですね。
元々は平野郷という地名だったのですね。この「平野」という地名のルーツは分かっているんでしょうか。
初代征夷大将軍の坂上田村麻呂の次男である坂上広野麻呂(さかのうえのひろのまろ)という方がいました。奈良時代から平安初期にかけて、このあたりには「杭全」と呼ばれる荘園があり「杭全荘」と呼ばれていました。その荘園を広野麻呂が所有しておりそれ以降広野麻呂の家系の方がずっと住まわれていました。広野麻呂家の土地だったことから、ひろの、ひらの…と次第に訛っていき「平野」という地名になったのではないかと言われています。
なるほど!ある言葉が訛って…というのは地名の由来としてはよくありますよね。坂上家の土地だったということですが、その後もずっとそうなのでしょうか。
この土地は、江戸初期以降秀吉の奥さんであった高台院(=ねね)の領地や幕府の天領、あるいは古賀藩の領地になるなど名目上の支配者は変わっていきますが、基本的には平野に暮らす人々が自治に近いような状態で治めているという特徴がありました。
地域の方たちの力で保たれていたんですね!そういった土地は大阪市内でも珍しいのでしょうか。
そうですね。府内で言うと堺市は商業自治都市として有名で、堺市ほどの大規模ではありませんが平野に住む人々がそれぞれの経済力を背景に自治を行っていました。信長が畿内を支配する頃には、堺の町衆から平野の町衆に宛てて「共に手を組んで信長に抵抗しないか」という誘いもあったようです。
それはすごいですね!それだけ力があり信頼されていたことの証だと言えますね。
まさにそうです。自治都市間の同盟を呼びかける文書は日本中を探しても他に類を見ないそうです。そういった自治の気風がある街です。
現在は「平野」と聞くと穏やかで暮らしやすい町というイメージで、都市として栄えていたというイメージはあまりないのですが、かつてはそうではなかったのでしょうか。
大阪では梅田の周辺や天王寺あたりが近代で都市化が進んだ場所です。その理由は、あのあたりが両方とも農村地域であり開発しやすかったという点にあります。明治になり鉄道を引く計画ができた際、梅田や天王寺あたりはまとまった敷地もあり鉄道を敷設し大きな駅を作ることができたため、町としても次第に発展することができたのです。それに対して、平野は江戸時代には都市化が完了し、近代的な都市として再開発する余地がありませんでした。江戸時代の平野の地価は他の場所の3~5倍ほどであったことからも都市化の度合いが分かると思います。
そんなに高かったのですね!都市としての値打ちの証明ですね。
そうです。近世の都市として開発が完了していたので、近代都市として新たに開発する余地がなく今では大阪の下町、ベッドタウンのようなイメージを持たれている方が多いかと思います。旧平野郷、杭全神社を取り巻く周辺エリアは江戸時代までの高度な都市がそのままタイムカプセルに詰め込まれたような、当時の面影が残っている町です。
当時から現在の町の形が出来上がっていたんですね!
まさにそうです。このあたりは戦時中に空襲に見舞われることもなく再開発もされていませんから、現在の町割りは大坂の陣の直後に造られたものがほぼそのまま残っています。
それは歴史がありますね。経済力もあった土地、ということですが、その名残は現在にも感じられますか。
そうですね、杭全神社も経済発展した江戸時代の経済力を基に社殿やお祭りの規模が形作られたので夏祭りにはだんじりが9台出るなど大阪府内でも有数の大規模なものです。江戸時代に栄えていた姿が今なお色濃く残されています。
だんじり9台はすごいです!迫力がありますね。神社の敷地も広くそれゆえにこれだけの緑を湛えているのだと思いますが、この敷地の広さも関係しているのでしょうか。
ええ、これだけ緑が多いのもそれだけ広大な境内地を持つ余力がこの町にあったということです。実際に、参拝に来られた方は「平野にこんなに大きくて緑の多い神社があるなんて知りませんでした」と驚かれる方が多いんです。
確かに、あまりイメージはないかもしれません。ですが、お聞きしてみるとかつての町の雰囲気は様々な所に残されているのですね。
かつては町の周囲を囲むお濠もありましたが今はほとんど埋め立てられています。お濠を超えるための入り口が13ヶ所あり、当時は外から攻撃されればその入り口を閉めることで防御できるようになっていました。現在でもその名残があり、道が細くなる所にお地蔵さんが立てられ、そこを歩けば「ここが昔のお濠の際だった」と分かるようになっています。そんな風に当時の姿を見られる場所です。
難読の名称は「水」への所縁から
では神社の歴史ついてお聞きできますか。
神社として成立したのは貞観4年(862年)、今から1200年弱ほど前の歴史ある神社です。広野麻呂の息子である当道(まさみち)という方がいました。彼が坂上家の氏神として牛頭天王をお祀りしたのがこの神社の興りと言われています。
やはり坂上家はこの神社を語る上で外せない人物なのですね。「杭全」という名称は、難読地名になると思いますが名前の由来は分かっているのでしょうか。
日本書紀と古事記の話に遡るのですが。古事記には「クヒマタノナガヒコ」、日本書紀には「カワマタノナカツヒコ」という人物が登場します。どちらも平野のあたりに所縁を持つ人物で「クヒマタ」「カワマタ」という名はおそらく水に関係する由来のある名前だろうと考えられます。水が多く湿地に近いような場所を地盤改良する際には杭をたくさん打ち建物を建てられるようにします。杭全というのも川がたくさんあった場所、そこに杭をたくさん打ちすべて打ち終わった場所、ということに由来するのではないかという説があります。
なるほど。「杭」を「全て」打ち終わった場所に所縁のある人物の名前が「クヒマタ」「カワマタ」ということで、「クマタ」となった可能性があるということですね。難読ですが、その由来はとても面白いですね!
初めて来られる方はまず読めませんし、かつて戦前の頃にとある美術館へ当社から出展した際、キャプションにローマ字で「kouzen shrine」と書かれていたこともあります(笑)少し考えると、「杭全」を音読みしたものだと分かるのですが、神社の人間は一瞬何のことか分かりませんでした(笑)
「熊野の神様」とも縁の深い、不思議な関係。
では、神社建築の特徴的な部分をお聞きできますか。
当社には本殿が3つあり、すべて重要文化財に指定されています。第一本殿が最初に奉仕された坂上家の氏神としてお祀りされた須佐之男命(スサノオノミコト)を祀っています。社殿は正徳元年(1711年)に奈良の春日大社の遷宮が終わった後の古材を貰い立て直したものです。春日大社由来だと明らかになっている中では最も古い部類に入る建築物で、昭和末期に重要文化財に指定されました。第二・第三本殿は、和歌山の熊野三山の神様をお祀りしています。両方とも室町時代の終わりに作られたものがそのまま残っており、大阪市内の木造建造物としては最も古い部類に入ります。当社ではこの3つのご本殿が重要文化財に指定されています。
熊野三山の神様もお祀りされているのですね!大阪との関係性は聞いたことがなかったので興味深いです。
もう一点、かつてお堂だった建物があるのですがこちらも特徴的なものです。平安時代以降に流行した「熊野信仰」という信仰があります。これは和歌山県と三重県にまたがる熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉神社、熊野那智大社の三社)を中心とする信仰のことです。熊野信仰は神仏習合の色が強く、境内に鐘をかけるための鐘楼や、多宝塔という二重の塔のようなものがありました。弘法大師(空海)をお祀りした大師堂があったのですが、明治元年に神仏判然令(しんぶつはんぜんれい)という法令が出されました。これは神社に仏様をお祀りしてはいけない、その逆にお寺に神様をお祀りしてはいけないという政府からのお達しです。郷内に坂上田村麻呂の御神像をお祀りする長宝寺というお寺があり、そのままでは長宝寺の坂上田村麻呂の御神像、そして杭全神社の大師堂も取り壊さなければいけませんでした。そこで、当時の町の人々が知恵を絞って「中身を入れ替えればどちらも残せるのでは」と考え、神社にあったお大師様の像を長宝寺に持ち込み、長宝寺にあった田村麻呂の御神像を杭全神社に持ち込みました。こうすることで、お寺には仏様、神社には神様がいるということになり問題なくなったわけです。
なるほど!中身を入れ替えてどちらの信仰も残そうということですね。
そうです!神仏判然令に対しては過剰に反応した地域もあり、中には寺院を全て潰してしまうというような地域もありました。田村麻呂公をお祀りしている田村社は、元々のお大師堂の姿をそのまま留めているので明らかにお寺の建物だと分かります。これはとても面白い部分です。
神様と仏様が混在している、まさに神仏習合の姿ですね。
仏像を隠して残した例は各地にありますが入れ替えて両方とも信仰を継続したという例はとても少ないです。そういった、パッと見ただけではまず分からないけれど、背景を知ってみるととても興味を惹かれる建物です。
お聞きしてみないと分からない部分だと思いますので、今日お話を聞くことができてよかったです。では、神社周辺についてですが、この町はどういった町だと思われますか。
神社の周辺は、元々環濠都市といって町の周りをお濠が囲んでいるような場所でした。現在はほぼ埋め立てられていますが神社の東側に一部だけ当時の環濠の跡が残っており、かつてはこうして町をお濠が囲んでいたということをイメージできるかと思いますので、来られた際にはぜひ見ていただきたいと思います。
お当時の姿に思いを馳せることができる場所なのですね。
そうですね。大坂の陣の前後にかけて作られた町割りが残っており、かつて力を持っていた商人の家屋で文化財指定を受けている建物もいくつかあります。また、鎌倉仏教の一つである「融通念仏宗」という宗派の総本山である「大念仏寺」という寺院には、大阪市内で最大の木造建造物と言われている大きなご本堂があります。また、JR平野駅から地下鉄平野駅にかけて1㎞半ほどが概ね旧平野郷の環濠に囲まれた地域と重なりますので、地下鉄からJRまで南北に街中を通るように歩くと当時の古い町並みを眺めながら歩くことができます。近くのお寺の横にはドラマ『孤独のグルメ』で取り上げられた串カツ屋さんもあります。ちょっとした街歩きにはとても最適な町です。
夏祭りに見る、地域愛。
地域の方との関係性についてもお聞きしたいのですが、地域の方と行う行事などはありますか。
様々なものがありますが、最も大きなものはやはり夏祭りです。旧平野郷町のゾーンを中心に9台のだんじりが出ており、それが神事に合わせて宮入するのですが、だんじりの一連の行事と神社のお祭りで数十万人の人出があると言われています。9台それぞれ、昔から残る組織があり完全に自治運営をしています。
地域の方自らが主導となって運営されているのですね!この町の気風を感じます。そのように地域住民主導となった背景には何があるのでしょうか。
歴史上の話になりますが、かつて坂上家の分家とされる家が7つありました。それぞれが各々のエリアを管轄しており、7つの町の割り付けが現在でもだんじりの組織にのみ残っています。行政区画や自治会はそれぞれバラバラなのですが、だんじりだけは昔の町の名前、昔の町のゾーンで管理されており、現在もその地域の方がそれぞれで運営されています。
だんじりはそれだけこの地域の方にとって特別な存在なのですね。規模も大きいと伺いましたが、日程も長い期間行われるのでしょうか。
夏祭りは4日間あり、7月11日~4日間、現在も曜日に関係なくこの日にちで行っています。ですから、皆さん平日でも仕事を休まれてお祭りに参加されています。これも各町でだんじりを運営するための組織があり、だんじりを引き回すルートを決める担当、事故予防担当、行政担当など各担当がそれぞれ分かれておりお祭りが終わったらその翌月から来年に向けてそれぞれ準備を始めます。
その年が終わればすぐに来年に気持ちが向いているんですね!
本当にそうです。平野の方のお祭りにかけるエネルギーはいつ見ても感服します。夏祭りに杭全神社にだんじりを宮入りさせることに、とても強い情熱を持っていらっしゃいます。みなさんお子さんが生まれたらお宮参りも杭全神社で行われる方も多く、地域の氏神として意識を持っていただいていると思います。
本当に地域になくてはならない神社なのですね。
そうですね、大阪府内でもこれだけ地域の力が残っている場所というのは少ないと思います。地域の方に「杭全神社ってどんな神社?」と聞けば、まず「夏祭りの場所」という声が返ってくると思います。時代が移ろう中で、それぞれ苦労もあるはずですがこれだけの規模で曜日に関係なく4日間も行われているお祭りはそうありませんから町の誇るべき文化だと思っています。毎年6月になるとお囃子の練習などが始まり「今年もこの季節が来たな」と季節を感じます。
大阪の神社に、熊野の神様。その所以とは
かつて山伏のような恰好をした人がリュックサックのようなものを背負って平野の地にやってきました。このリュックの中には有名な役行者(えんのぎょうじゃ)が彫った御神像が入っているのでこれを祀りなさいと言い持ってきました。
ところが、当時の神社の人は「こんな得体の知れないものは祀れない」と言って相手にしなかったため、山伏はそのリュックを松の木に引っ掛けて帰っていきます。するとその夜、そのリュックから神社の方に向けて光が放たれ、木が急に生えてきたなど不思議な予兆があり、神社の人も「これはおかしなものではなく、本当に大事な物かもしれない」と考えを改め、熊野の神様をお祀りするようになったそうです。
その後、南北朝時代になり後醍醐天皇が吉野へ向かう道中、この辺りを通られ長宝寺が行在所になりました。その時後醍醐天皇にもこの不思議な話が伝わり「そういう話があるのなら、きちんと熊野三山の神様を全てお祀りしなさい」と言われて、第二本殿の熊野三所権現をお祀りするようになったと伝わっています。一見関係がないように思われる熊野三山の神様をお祀りするようなった不思議なエピソードです。
神社での行事
だんじりで賑わう夏祭り以外でも、様々な行事がある杭全神社。特殊な神事としては「お田植神事」というものがあります。関西では奈良などでよく見られ、「御田(おんだ)」とも言われますが、田植えの前に豊作を祈願して田植えにちなむ所作を行います。毎年4月13日に行われ、能の古い形である「猿楽」で、田んぼを耕してならし、種もみを蒔く所作を再現しています。その種もみを自分の田んぼの種もみに混ぜて稲作をすると豊作になると言われており、「福の種を蒔こうよ」とシテの蒔く種もみを、参列の方々が拾って帰られます。
現在では、神社周辺で稲作を行っている場所は少なくなってきたため、50年ほど前より福の種を財布に入れられるような形の縁起物として神社でもお頒ちしています。神事ではありますが、国の無形民俗文化財にも指定されています。
今後の展望について
江戸時代には強大な経済力を持って繁栄していた平野。経済力だけでなく、連歌会所を作り様々な階層の人を呼び寄せ連歌を行うなど、文化水準も高い地域でした。そのため、江戸時代中期には含翠堂(がんすいどう)と呼ばれる、民間運営による高度な教育を施す学校も存在していました。
寺子屋のように生徒から授業料を取って運営する私塾ではなく、幕府など公の許しを得て運営していた教育機関です。中でも有名なのが「懐徳堂(かいとくどう)」という学校で、現在の大阪大学文学部の前身の一つと言われています。享保2年に設立された含翠堂はこうした学校の先駆けで、懐徳堂創設にあたって参考にもされましたが、儒学中心の懐徳堂と異なり、庶民にとってより実践的な知識も教えていたようで、漢籍だけでないさまざまな蔵書が残されています。
明治に入り学制が公布されたことでその役目を終え、その蔵書の大半は当社で保管しています。また、含翠堂は運営のためのお金の積み立てとは別に飢饉に備えた積み立ても行っており、享保の大飢饉の際にはお米を放出して町を助けたという話も残っています。平野の自治の気風と文化的水準の高さがよく表れている機関でした。
この含翠堂の設立者の一人である土橋友直(つちはし ともなお)という人物がもうすぐ没後300年を迎えます。そこで、今一度平野の地域で様々なことを学んだり、こども食堂のような世代間交流ができる場所、あるいは地域で何かを学ぶ機会を作るための場所として現代版の含翠堂を再興したいと考えています。
元々、地域の神社というのはその地域の人々が自分たちの公共財としてお金を出し合い運営してきた、コミュニティーホールのような機能がありました。当時と同じ文脈で語ることはできませんが、地域にとってどういった場所であるのかというのは神社にとって大切です。地域コミュニティが今よりも活発になり、地域の方が楽しく暮らせる町のハブのような存在になっていきたいと願っています。
【インタビューまとめ】
街中の神社でありながら広大な森に包まれた都会のオアシス。近世よりも以前に発展しいずれの時代においても、地域住民たち自らの力により自治が行われてきました。そんな歴史があるからこそ、この地を盛り上げてきた過去があるからこそ現在でも平野の人々は杭全神社とお祭りを愛し、そして地域を愛しています。
現存する、全国で唯一の連歌会所が証明するように教育水準も高く学問への造詣も深い地域であったことが窺えます。そんな地域の中心として存在する杭全神社は、まさに地域にとってなくてはならない神社であり、この先も平野の人々と共にあり続けるでしょう。
アクセス
杭全神社
https://kumata.jp/
〒547-0046
大阪府大阪市平野区平野宮町2丁目1番67号
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