MENU

橿原神宮 近畿一円に知れ渡る、日本の始まりの地。

神宮外観

日本という国がいつできたか。そして、それはどの地から始まったのか。答えられる人は意外と少ないのではないでしょうか。

2月11日は何の日であるのか、どうしてその日なのか。歴史の授業では触れられることのない疑問に迫る、奈良県橿原市の旅です。

目次

橿原神宮とは

参道・第一鳥居

良県橿原市。奈良県内はもちろん、京都や大阪府からもアクセスの良いこの地に、橿原神宮があります。天皇と共にあり続けるこの国の第一代天皇とされている神武天皇。その神武天皇が即位したとされているのが、橿原宮(かしはらのみや)です。

『古事記』『日本書紀』では、元々九州の宮崎にいた神武天皇が瀬戸内海を通り、東へと移動、最終的に奈良橿原の地で紀元前660年に即位したと記されています。日本のはじまりの地で神武天皇をお祀りする橿原神宮。

そんな国のはじまりの地にまつわるエピソードを、神宮の方にお聞きしました。

【橿原神宮 特別インタビュー】

第一代天皇である神武天皇。橿原神宮は神武天皇をお祀りし、奈良県内でも格式と由緒ある神社として知られています。その歴史には日本の始まりが深く関係しています。いわば日本のスタート地点であるこの神社の知られざる歴史と現在の活動について伺いました。

① 変革の守護神、神武天皇への思い。

拝殿と畝傍山
編集部

この神宮の概要についてお聞きしてよろしいでしょうか。

神宮職員

橿原神宮は、第一代の天皇である神武天皇と、その皇后である媛蹈韛五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)をお祀りする神社です。創建は明治23年4月2日、今から134年前ですから神社としては新しいですね。

編集部

この場所に神宮が建設されたことと、神武天皇をお祀りしていることは何か所以があるのでしょうか。

神宮職員

元々神武天皇は宮崎にいらっしゃったのですが日本全体を平和で豊かな国とするため、日本の中心を目指し東へと移動します。その最終到達地点が橿原の地です。畝傍山の東南に橿原宮を創建され、そこで神武天皇が即位したとされているため、歴史をたどる意味でこの地に建てられました。

編集部

神武天皇のお墓である神武天皇陵もこの付近にあるとお聞きしましたが。

神宮職員

ええ、畝傍山の東北に神武天皇陵があります。幕末に、明治天皇の父君である孝明天皇が現在の御陵を神武天皇陵と定めました。現在の場所以外にもいくつかお墓の候補地はあったようですが、様々な調査が行われ、現在の地に定められました。調査以前は、現在の神武天皇陵の北にある綏靖(すいぜい)天皇のお墓を神武天皇陵としていた時期もあったようです。

編集部

神武天皇は第一代の天皇ですから、天皇陵の場所が決まった幕末からはかなり時代を遡る人物ですよね。もっと早い時代ではなく、幕末に決められた理由は何かあるんでしょうか。

神宮職員

江戸時代はペリーの黒船が来航するまでは鎖国しており、平和な時代でしたよね。ですが、黒船が来て開国を迫る。そうすると時代が変わるかもしれない。突然外国から船がやってきて、国が乗っ取られるのではと不安になります。そんなときに天皇がすべき一番の務めは、国の平和と国民の安寧を祈ることです。それでもやはり外国から人は来てしまう、ではどうすればいいかと考えたときに自分たちの祖先である神武天皇陵へお参りに行くことが大切ではないかと考えたわけです。その頃、天皇陵はただお墓があるだけで整備はされていませんでしたから、それではいけない、しっかりと綺麗に整備しようと考えました。幕末という国が大きく変わろうとしていた時代に、そこへお参りし国の平和を祈ることでお護りいただきたかったのかもしれませんね。そういった背景があり、現在も神武天皇や歴代の天皇陵に参拝することは、平和を祈ることに繋がると考えられています。

編集部

孝明天皇ご自身もそこへお参りされたんでしょうか。

神宮職員

いえ、孝明天皇自身は病弱だったため自分で参拝することは叶わずに亡くなってしまっています。

編集部

そうなんですね、それは残念です。ですが明治天皇の行動などから、かつての人々も神武天皇へ特別な思いを抱いていたということが分かりますね。

神宮職員

実は日本の最も古い歴史書の一つである『日本書紀』にも神武天皇陵のおおよその場所について記載があります。ですが、その『日本書紀』よりも以前に聖徳太子などが日本の歴史をまとめようとしていました。歴史を辿れば、当然「この国の最初の人物は誰か」という疑問が出てきて、調べるうちに神武天皇という人物に行き当たります。そして畝傍山の東北の方に葬られているらしいことが分かるなど、神武天皇について様々なことが判明し神武天皇がこの国にとっていかに重要な人物であるかに気付きます。そういった本当に国が始まった初期の頃から、人々は神武天皇に対して思い入れがあったと言えると思います。

きっかけは、平和を祈る気持ち。

神武天皇祭
編集部

神武天皇と神宮の関わりについてよく分かりました。では、この神宮を建てたきっかけは分かっているんでしょうか。

神宮職員

結論から言うと、平和を願うための神社、神武天皇にお参りするための神社を作ろうと当時の人々が願ったことがきっかけです。

編集部

詳しくお聞きできますか。

神宮職員

時代が明治に変わり、明治天皇も先代に倣って時代が変わる=国の在り方が変わる時には平和をお祈りしなければ、ということで参拝に訪れるわけです。そして明治10年2月11日に初めて明治天皇が神武天皇陵にお参りをしました。明治天皇も父である孝明天皇のように国の平和を守りたい、海外との交流も盛んになる中で外国の人々とも長く上手く付き合っていきたいという思いからお参りに訪れたのです。そういう背景がありますから、神武天皇は国の平和を守ってくれる象徴でもあるわけです。そして、徐々に一般の人々も神武天皇をお参りしたいと思い始めます。そこで明治の初期から国に対して平和を願うための神社、つまり神武天皇をお祀りする神社を作ってほしいとお願いしました。その甲斐あって、明治天皇が神社創建に動き明治23年に橿原神宮ができました。

編集部

国が変革を迎える時期に国民とその平和を守ってくれる、神武天皇はそういった存在なのですね。

神宮職員

江戸から明治に変わる、開国で日本がひっくり返るのではないかという時に当時の天皇が神武天皇の力を借りたいと思ってできたのがこの神社のはじまりです。そういった歴史的背景を感じられる場所ですから、日本のはじまりの場所だと思ってもらえると嬉しいです。日本のはじまりの地ということもあり、歴代の天皇も神武天皇や橿原神宮に対してはじまりの地を貴ぶ気持がありました。現在でも皇族の方が新しく役職に就かれる際に天皇陵にお参りをされますが、それは明治天皇が最初にお参りした時と同じような気持ちで国の繁栄や国民の安全をお守りください、という思いでお参りされているのです。

ご神徳を表す、広大な敷地。

久米舞
編集部

神社の建築様式について特徴的な部分はありますか。

神宮職員

神様をお祀りしているご本殿は特徴的です。というのも、神社建設の際に作ったものではなく京都御所で使われていた内侍所(ないしどころ)賢所(かしこどころ)=皇居内で天照大御神をお祀りしていた建物)を、ご本殿として使ってほしいということで現在もその内侍所をご本殿として使用し、神様をお祀りしています。

編集部

それは珍しいですね!敷地もかなり広く思われますが、これは創建当時から変わっていないのでしょうか。

神宮職員

現在の敷地の総面積は53万平方メートルで、この大きさになったのは昭和15年です。その年は神武天皇が即位されてから2600年という年でその記念の奉祝事業で現在の大きさに拡張しました。

編集部

それまでは現在よりも少し規模が小さかったのでしょうか。

神宮職員

そうですね。明治の頃には本殿と、拝殿として神嘉殿(しんかでん)という建物の2つがあるのみの小さな神社でした。しかし、多くの参拝者が訪れるようになり狭く感じられるようになったことで、敷地を広くしようという計画が出てきました。そして明治末期から大正にかけて敷地を拡げ、そこからさらに大きくしようということで昭和15年に現在の広さになりました。

編集部

敷地が広くなり、より多くの方に来ていただけるようになったんですね!他に建築の面で特徴的な部分はありますか。

神宮職員

実は、境内の木はほとんどが台湾から持ってきた檜の木なんです。台湾の阿里山(アリサン)という山から切り出した檜の木で、それらを使って鳥居や社殿を作りました。当時は台湾を日本が治めていた時期でしたから、阿里山鉄道も阿里山から木を運ぶために作られた鉄道なんです。その木を降ろすための駅などもあるんですよ。現在では台湾は檜の木の輸出を禁止していますから、本当に当時ならではのエピソードです。

編集部

意外なつながりですね!珍しいお話だと思いますが、どなたが建築されたんでしょうか。

神宮職員

建築した方は、当時神社を管轄していた内務省の建築家、角南 隆(すなみ たかし)という人物です。橿原神宮だけでなく、奈良県内では吉野神宮、かつては台湾の神社なども設計されていたようです。当時は神社の格式のようなものが決められていて、それにより神社面積も決められていました。その中でも橿原神宮は最上位である官幣大社(かんぺいたいしゃ)として昭和初期の最上級の建築様式を採用して建築されました。

編集部

この神宮がいかに国に認められた立派な神宮であるかが分かりますね。参拝場所にも特徴があると拝見しましたが。

神宮職員

お参りするところがちょっと離れているんです。一般の方がお参りする所は外側と内側の拝殿2か所あり回廊でその2か所を結んでいます。また、神武天皇をお祀りしていますから御所をイメージした造りになっています。当時の宮司さんも、神武天皇の広大なご神徳を大きな庭と境内で表したいという思いがあったようで、そういった思いから現在のような広大な土地と大きな社殿が特徴的な神社になりました。

編集部

この様式は、橿原神宮ならではのものでしょうか。

神宮職員

当時はそうだったようですが、明治神宮が戦争で焼けてしまった際に同じく角南さんが橿原神宮の建物を参考に作ったので、明治神宮の建物も様式が似ているんです。

編集部

なるほど!同じ建築家の方によって建てられたんですね。それでは、周辺景観の見どころはどういったところでしょうか。

神宮職員

ここから北へ一駅分ほど行くと今井町という昔ながらの建築様式の建物が多く残る街があるんですが、そういった風情のある街並みを楽しめたり、南へ行けば明日香村で遺跡が見られるなど、観光スポットとしておススメの場所もたくさんあります。奈良と言えば春日大社や東大寺の大仏、奈良公園の鹿などが有名ですが、やはりそういった有名な場所には外国の方も多く訪れていますから、少し賑やかですよね。ですが、今言ったような場所やこの神宮周辺ですとそういったこともなく、落ち着いて観光ができます。神宮自体も白木の社殿ですからゆったりとした雰囲気の中で心を落ち着かせることができますよ。

地元を愛し愛される、奈良県随一の神宮。

お正月
編集部

地域の方々からも愛されている神社、というイメージですが地域住民との交流などは行われていますか。

神宮職員

やはりお正月ですね。お正月は三が日で120万人ほどの人出があります。これは春日大社よりも多く、奈良県内でも随一です。周辺道路も綺麗に整備され大阪南部からも30分ほど、和歌山からも40分ほどで来られるようになり、非常に多くの方が参拝に訪れています。

編集部

120万人ですか!それはなかなか凄い数字ですね!観光客の方も多いと思いますが、地元の方もたくさん参拝されますか。

神宮職員

普段の日であれば、平日は観光客の方が多いですが土日はお宮参りなどのご祈祷や結婚式などで地元の方も多く来られます。平日でも散歩がてらふらっと寄っていかれる近隣の方もいらっしゃいます。

編集部

やはり地元の方も神社への思い入れがあるのでしょうね。この神社ならではの行事はありますか。

神宮職員

4月2日は神社創建の日、そして4月3日が神武天皇の命日です。なので、その2日間で行われるお祭りを春季大祭として行っています。元々この時期を、地元の方は「神武さん」と呼んでいて、神武天皇の神社にお参りしてお祝いしようというような風習が昔からありました。現在ではお祭りに合わせて様々な催しを行っており、キッチンカーやいろんな出店が出たりして賑やかです。子どもたちにも職業体験イベントに参加してもらったり、夏場であれば林間学園も開催しています。森の中で参加した小学3年生~6年生の子どもたちが図工や歴史、科学などについて学べるプログラムを用意しています。

編集部

それは面白そうですね!神宮の方が主体となってされるんでしょうか。

神宮職員

基本的な運営は神宮で行っていますが、林間学園では学校のOBの先生方にも手伝っていただいています。ほかにも、地域の方や地元企業などと一緒に色んな作品を作るイベントなども行っています。また、お正月には書初め大会を席上揮毫(せきじょうきごう)の形で、隣接する体育館で開催しています。橿原神宮を地域の方に身近に感じて頂きたく、交流を大切にして、参加型の行事を多く開催していますよ。

神宮での祭事

紀元祭

神宮内での最も大きな祭事は建国記念の日である2月11日に行われる紀元祭。明治天皇が最初に神武天皇をお参りしたのが2月11日ですが、その日付にも意味があります。明治に入るとそれまで太陰暦だった暦が太陽暦に変わります。

太陽暦では2月11日が太陰暦の1月1日にあたり、『日本書紀』『古事記』では神武天皇が第一代天皇として即位された日とされています。明治天皇もこの日に合わせてお参りしたというわけです。そういった所以から2月11日が国のはじまりの日とされ、現在も建国記念の日として国民の祝日となっています。

橿原神宮でも2月11日を紀元祭として、国のはじまりをお祝いするお祭りを行っています。1日で15万人程度の人が訪れる神社では一番大きな祭事です。

また境内の神饌田で田植えを行うお祭りや稲を抜穂して収穫するお祭りもあり、収穫したお米は神宮近くの酒蔵で醸造され、お祓いをした上で神様にお供えしています。自分たちの田んぼで作ったお米からできたお酒ですから思いも一入です。

今後の展望について

2024年現在、日本国が始まってから2684年を迎え今から16年後には紀元2700年を迎えます。紀元2600年の際には境内地の拡大や、多くの奉祝がありましたが、100年経てば神武天皇への思いや、はじまりの地であることへの思いなど色褪せることもあります。そこで、16年後にもう一度国のはじまりの地、橿原神宮をお参りしていただきたいという思いから、お祀りしている神様について周知を図るため、宝物館の企画展などを実施しています。

日本のはじまりの地である場所にお参りすることによって、国ができたかつての時代に思いを馳せてほしい。誰しも先祖がいて、父母がいて現在の自分があります。その先祖を辿れば必ず神武天皇の時代にたどり着きます。橿原神宮をお参りすることにより国のはじまりを感じながら、自分たちの先祖にも感謝をする、この場所はそういった貴重な時間に浸れる場所です。

アクセス

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

ラボ編集部のアバター ラボ編集部 編集者・取材ライター

歴史と文化遺産に情熱を注ぐ29歳の編集者、山本さくらです。子どもが1人いる母として、家族との時間を大切にしながらも、文化遺産ラボの立ち上げメンバーとして、編集やインタビューを担当しています。旅行が大好きで、訪れる先では必ずその地域の文化遺産を訪問し、歴史の奥深さを体感しています。
文化遺産ラボを通じて、歴史や文化遺産の魅力をもっと多くの方に届けたいと日々奮闘中。歴史好きの方も、まだ触れていない方も、ぜひ一緒にこの旅を楽しみましょう!

コメント

コメントする

目次